2014年9月15日
ソーシャルゲームには「課金ゲー」とも呼ばれ、巧みに消費者の弱みをつき、だますかのように、高額な課金に追い込んでいくジャンルがある。 そんな構図を、テレビアニメ「プリパラ」の描写から垣間見ることができて、面白い。
「プリパラ」という作品がはやっている。アイドルを目指す少女たちの活躍を描いた作品で、アニメとアーケードゲームが展開されている。
プリパラの世界では、「プリズムストーン」というテーマパークを模したようなゲームセンターで、アイドルごっこを楽しめるようになっている。
プリズムストーンの内部は、バーチャルリアリティーになっている。仮想現実の世界の中で、好きな衣装を着て、他のプレイヤーと協力して、ライブを演じたり鑑賞したりできる世界になっている。
この世界観は、現実の世界でいえば、ソーシャルゲーム(とくにMMORPG)に近い。ゲームの仮想世界の中で、様々なユーザが出会い、人間関係を構築しながら、物語を進めていくからだ。
アニメ「プリパラ」の世界の構成
プリパラのアニメは、仮想現実の世界「プリズムストーン」に通いつめる少女たちの、人間ドラマを描いている。
仮想現実と、リアルな世界での生活を行き来する展開なので、ネットゲームに熱狂しているゲーマーを描いているようにも見える。
シナリオでは、ゲームと現実の間で、人間関係に悩む姿がリアルに描かれている。その背景には、ゲーム産業がしかける課金地獄のようなものが垣間見られて、楽しい。
ちなみに、アーケードゲームとしての「プリパラ」は、ソーシャルゲームではなく、ゲームセンターに設置された筐体に100円玉を入れて遊ぶゲームだ。バーチャルリアリティーではなく、3DCGとして表示されるダンス映像に沿って遊ぶ、リズムゲームになっている。バーチャルリアリティーによるネットゲームっぽさが強調されているのは、アニメの世界だけである。
「プリパラ」の世界では、プレーヤーは、いくつかのランクに分けられることになっている。
アイドルランク
ランクは、プリパラの世界でライブを実演し、獲得した得点(「いいね」)の累計値が、特定の値に達すると上がるルールになっている。
得点は、プレイを繰り返すたびに累計されていく。セーブデータは、二次元コードが印刷された「チケット」に保存する仕組みだ。
プリパラの参加者には、得点のデータがついてまわるので、常にピラミッド型の序列の中に取り込まれることになる。
経験値がたまっていくと思えば、面白いのかもしれないが、それは、課金プレイの回数を強く反映する。
プレーヤーはゲームの世界の中で、ランクを上げていくことを求められる。
アニメの劇中で歌われる歌詞にも「神アイドルを目指す」など、組織の中で高い地位につくことが、ゲームの目的であるかのような宣伝がなされているのだ。
現実の世界であれば、アイドルの目的はたいてい、観客を楽しませることや、観客から収入を得ること、歌手や俳優の仕事を得るきっかけを得ること、などだが、プリパラの世界では、アイドル社会の中で、相対的に高い地位を得ることこそが、アイドルの目的であると、運営側は主張するのである。
ゲームの世界の中で、地位を高めるためには、ライブを繰り返し行う必要がある。
そのためには、お金が必要だ。アーケードゲームの「プリパラ」では、1プレイ100円で1回ライブができる。
お金さえ出せばライブを開催でき、経験値に相当する「いいね」を取得できるので、序列の中で地位を高めることができるのである。
ちなみに、構成員の地位を序列化して、競争を煽り立てる手法を取っているのは、ソーシャルゲームだけではない。
様々な管理職を作って出世競争をあおりたてる企業や、大学を序列化して受験戦争をあおりたてる受験産業、社会の破壊をたくらむ悪のカルト教団など、人々を序列の枠に押し込んで、競争を煽り立てる組織は、現実の世界にもたくさんある。
会社員の序列
人間にランクをつけて、上下関係を強いるような表現には、ランクの作り手に都合がよい価値観を押し付け、支配するのに有利な状況を作り出すことを目的としている場合が多い。
カードゲームやソーシャルゲームでは、消費者に際限なく出費を強いるために、都合のよい価値観が作られている。
実は、このような価値観は、ゲームをしない立場から見ると、とても偏屈に見える。くだらない価値観を強制され、望みもしない競争に駆り立てられ、貴重な時間や資金を根こそぎ奪われてしまう様子を見ると、情けなくも見えてくる。
コンピュータゲームのイメージが、以前と比べて、ひどくうさんくさいものになっているのは、ゲームに「はめられて」いる人たちは、強欲な作り手が作ったくだらない価値観にとらわれている、情報弱者だと見下されているからに他ならない。
多少の自覚があれば、少し引いて考えることで、消費者からカネを引き出すことだけを目的とした価値観の中に引き込まれることの虚しさに気づけるはずなのに。
しかし、ソーシャルゲームは、そうやって冷静になることを許さない、恐るべき仕組みを持っている。
人間関係を操作するのだ。
プレーヤーにランクを付けても、仲がよい者同士で遊ぶだけであれば、ランクなど関係ないと考えるプレーヤーが多いと、課金をする側としては都合が悪い。
そこで、ランクが低いままだと、周囲のユーザーとうまくなじめないような雰囲気を作ろうと画策する。
「プリパラ」のアニメでは、アイドルが数人集まってユニットを作る際に、互いのランクの差を話題にして、不釣り合いだの不相応だのと罵り合う場面がある。
アイドルランクが低いままだと、ユニットに入れてもらえずばかにされるので、ゲーム世界の中で人間関係を作るために、やむをえず課金を重ねてランク上げに励まざるをえない状況に追い込むのだ。
「たかがゲーム」と割りきれるのであれば、課金地獄を無視して、面白いところだけを遊べるのかもしれないが、人間関係にまで踏み込まれると、そうも言っていられなくなるユーザは多い。
ソーシャルゲームのユーザは、現実の人間関係が苦手な人が少なくないので、バーチャルな世界で築いた人間関係には、大きな価値があると思っている人も多い。
それこそが、ゲームを作る側が最も付け入りやすいポイントだ。
人間関係を人質にして、どこまでも課金を強いる、課金地獄に陥れる。それこそが、ソーシャルゲームを作った一番の目的なのである。
ユーザは、「こんなことにカネをつぎ込むなんて、ばからしい」と分かってはいるけれど、やめられなくなってしまう中毒状態になったり、場合によっては、カネに縛られた偽りの人間関係だけを生きがいに、どこまでも騙され続ける廃人と化したりして、救いようのない世界に没落していくのである。
ちなみに、このようなシステムは、ゲームに限ったことではないようだ。
サラリーマンは、同期が出世し始めると居心地が悪くなるので、出世競争に励むようだ。
世間を気にして見栄を張るだけのために、大きな自動車を買ったり、屋上にパラボラアンテナを立てたりと、変なことをする人も多い。
「ソーシャルゲーム」が、プレーヤーに支持されない大きな理由は、射幸心をあおる要素ばかりが強調されているからだと言われている。
例えば「プリパラ」のアーケードゲームでは、1回プレイするたびに、衣装が印刷された細長い「チケット」を入手できる。
バーチャルリアリティーの世界で、ライブを行う際に着ることができる衣装は、ここで印刷された「チケット」の衣装だ。
よい衣装を持っているかで、ライブの成績が左右される。
よい衣装を得るためには、衣装のチケットを、より多く集める必要がある。
印刷可能な衣装は、プレイごとにランダムに選ばれるので、「当たり」や「外れ」を伴う仕様になっている。射幸心をあおる仕組みだ。
しかし、「当たり」を出すために、やたらと課金プレイを繰り返すというのは、見苦しいものだ。
プリパラのアニメでは、貴重な衣装を得るために、みだりに課金プレイを繰り返すような描写は控えている。
この手のゲームとしては、見られたくない弱みの1つなのかもしれない。
それでもあえて描写にふみきったら、プリパラのアニメは、神アニメとなれるかもしれない。
大人になり、自分でお金を稼ぐようになってからであれば、何にお金や時間をつぎ込んでも人の勝手だという考え方がある。
しかし、人格形成期の子どもに、このようなゲームをやらせるのは、問題がある。
何が面白いかは、ゲームの作り手ではなく、自分で考えられるようになってほしい時期だし、他者との関わりも、課金システムで偽られた世界ではなく、リアルな世界で深めてほしいと思うからだ。
だからこそ、ゲーム機を学校に持ってくるのを禁止したり、家庭でゲームをする時間を制限したりすることが、ふつうに行われている。
プリパラのアニメでは、大人たちが「プリパラ」に対し、好ましく思っていないことを示す描写がある。
例えば、小学校の校長が、プリパラへの入場券に相当する「プリチケ」を必死になって没収する姿が描かれている。
課金地獄のゲームから子どもたちを守るのは、教育者として当然の行為であり、子どもたちに、体を張って愛情を示していると考えられる。
また、主人公の「らぁら」は、親に対しては、ゲーセン通いを告白しておらず、ゲーセンに通うことが教育上好ましくないことに、薄々気づいているようでもある。
小学生がゲーセンに通いつづけることが、必ずしも健全な姿でないことを、アニメの作品中でそれとなく描いていることには感心する。そうすることで、リアルさが増すからだ。
ちなみに、子ども向けのおもちゃには、「プリパラ」に限らず、偏屈な価値観を押し付けて、お金を際限なくつぎ込ませる意図のものが多く見られる。
似たような作品が乱立するトレーディングカードゲームなどは、その際たるものだ。
心が未熟だからこそ、つけ込んでいくという、大人の側の醜い心が垣間見える。
「メディアミックス」という言葉が何十年も前から言われている。
「メディアミックス」は、一つ作品を作ったら、アニメ、マンガ、ゲーム、映画など、複数のメディアを同時に用いて、収益を広げていく商売の方法を示す言葉だ。
子ども向けのゲームを売るためにはとくに、アニメを使って宣伝を行うことが多い。
カードゲームをテーマにした、どれも似たり寄ったりのアニメ番組が乱立していたり、アイカツ、プリパラといったゲームセンター向けのゲームをテーマにしたアニメが頻繁に流れていたりするのは、そのためだ。
「プリパラ」のアニメでは、登場キャラクターの「クマ」が、以下のような価値観を繰り返し主張している。
高いランクのアイドルを目指すべきである
マイペースで遊ぶのではなく、他のプレーヤーよりも高いランクにつくように強いる。
ピラミッド型の身分構成を見せ、早く上へ行けとあおり立てる描写がある。
ゲームを行うことは、日常生活よりも優先すべきである
「クマ」は、小学校にまで執拗に電話をかけ、「らぁら」に対し、ゲームセンターに来ることを強いている。
日常生活を妨害し、勉学やリアルな人間関係を破綻させて、ゲーム一辺倒の思考しかできないように陥れようとする意図がうかがえる。
ゲーム内で協力するためには、相手と同格のランクまで、ランクを上げるべきである
他のプレーヤー「そふぃ」とユニットを組むためには、自分のランクを相手と同じくらい上げないといけないと強いる描写がある。
そのために、「らぁら」が、本来は望まないゲームプレイを、際限なく繰り返す様子が描かれている。
落ち着いて考えてみると、「プリパラ」のアニメは、人間を課金廃人に陥れるための、恐ろしい番組だと分かった。
一見してかわいいキャラクターたちが繰り広げるドラマは、課金地獄への招待状だったのである。
ちなみに、プリパラのアーケードゲームは、ゲームセンターや量販店に設置されたリアルなゲーム機なので、いわゆる「ソーシャルゲーム」とは違うジャンルだ。
100円玉を入れない限りゲームは起動しないので、保護者がつぎ込む金額をコントロールすることが可能だし、お店には親同伴で行くことも多いだろうから、大人がゲームとの付き合い方に助言を行える環境にある。
ルールやマナーをきちんと教えれば、コンテンツとしてほどよく楽しめる可能性も秘めた作品だ。
未来を担う子どもたちには、プリパラでゲームとの付き合い方を学び、スマホやパソコンでのソーシャルゲームに食われないように、育ってほしいものである。
また、「プリパラ」のアニメは、「アイカツ」と比べると、バーチャルリアリティーのゲームがもたらすネガティブな部分を、みだりに隠さずに、そのまま描写している点に特徴がある。
ゲームにはめられていく少女たちの心の変化を、リアルな描写で楽しめるという点で、独特の面白さがある作品なのだ。
コンピュータを使った「ゲーム」には、どんなイメージがあるでしょうか?「面白い」「やってるやつバカみたい」「日本の立派な産業」など、いろいろあると思いますが、誰かと話し合ってみると、楽しいかも。
ゲームにかけるお金には、どのようなものがあるでしょうか?ゲーム機本体の金額、ゲームソフトの金額、ゲームセンターにつぎ込む金額、ゲーム内で課金される金額など、様々なものがあると思います。ゲームをやっているのであれば、金額を一度点検してみると面白いかも。
ゲームの宣伝を目的としたアニメやマンガをみてみましょう。ゲームとして推し進めたい価値観を、物語の中でどのように受け入れさせようと努めているのかを読み解くと、作品の本当の面白さが見えてくるかも?
偏屈な価値観を押し付けて、人間関係を操作しながら、お金を多く使わせようとする産業は、ゲームだけではありません。他にも例を調べてみましょう。(燃料を無駄に多く使う、大きくて重い自動車を持つことが、地位の高さを示すと主張する自動車のコマーシャルなどは、一つの例になるようです。)
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製作・著作:杉原 俊雄(すぎはら としお)
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