2012年3月4日
変身ヒーローアニメ「スマイルプリキュア!」(東映アニメーション制作:2012年-)は、ヒーローが「テレビのスーパーヒーロー」を意識しながら戦うという、面白い表現を試みている。そこからうまれる錯覚を伴うリアリティーが、とても楽しい。
「スマイルプリキュア!」の第1話では、主人公が示す、物事を一生懸命やりとげようとする姿勢と、敵対勢力が示す、将来を悲観して努力をせずにあきらめようとする姿勢の対決を描く。
経済的に疲弊し、貧困と格差が広がる現代社会では、「希望格差」という言葉が象徴するように、「夢も希望もない社会だから、もう努力しても無駄だ」という気持ちに追いやられている人もいる。一方で、自分で目標を決めて、かなえようと一生懸命努力を続けている人もいる。
ヒーロー番組でありながら、扱うテーマは現実的で、身近だ。
このようなテーマの見せ方は、いろいろあるだろう。
例えばこのテーマで、「ドラゴンボール」のように、超人的なキャラクターが、人間離れした必殺技を駆使して、宇宙規模で対決するように描けば、「努力が意味を持つのは、超がつくくらいとがったやつらに対してだけだ。私たちのような普通の人には希望がない」「弱い者に未来はない」というメッセージから、現代社会の無慈悲さを風刺できるかもしれない。
「スマイルプリキュア!」も、ヒーロー物という点では上記と同じだが、少し違う印象を受けた。主人公が身近なところにいて、劇中でいっしょにがんばっているような気持ちになれた。一生懸命努力する主人公に、自分もなりたいと実感した。なんだろう、このリアリティーは!?
なぜ自分がこのような感想を持ったかについて、少し考えてみた。
絵本(物語)の世界にあこがれる主人公に、番組(物語)の世界にあこがれる視聴者の心情を代弁させることで、視聴者が主人公と一体感を持って楽しめる内容になっているところが、この作品の面白さだと思う。
主人公は、絵本が好きで、物語のような出会いを求めている。番組開始直後に、早くも願いがかなう形で、絵本の世界からやってきた妖精に出会う。その後、その妖精に敵対する勢力と戦うことになる。
変身すると、服装のかわいさを喜び、 必殺技を「かっこいい!」と自分で言ってから出そうとする。しかし、実際には必殺技は出ず、主人公は恥ずかしい思いをする。このあたりは、まさにヒーローごっこをテレビの中でやっているようなものだ。
視聴者は、ヒーローになったつもりになりたいから、番組を見ている面がある。おもちゃを買って、より積極的にヒーローごっこを楽しむ人も多い。ところが、ヒーローごっこをやっても、実際には必殺技は出せない。これは多くの視聴者が実際に試して、物足りなく思っているところだろう。
そのような気持ちを、劇中の主人公がそのまま示しているのである。とても親近感がわいてくる。
番組の見せ場では、相手に正面から立ち向かった主人公が、気合いを思い切り込め、はじめて必殺技を成功させ、勝利する。そして、どっと疲れる。
その疲れ方は、本物のヒーローは、テレビのヒーローとは違って、大変なんだなあ、という気持ちを、実感をこめて表している。
この気持ちが、なぜかテレビの前にいる私にも、実感のように感じられてしまう。「本当のヒーローは、テレビのヒーローとは違って、大変なんだなあ」と。
現実の世界では、劇中で必殺技を使う苦労は体感できないはずなのに、実感のように思えてしまうのは、不思議だ。その理由を知りたい。
こちらの図を見て考えてみよう。
図:テレビの中の登場人物と、視聴者の対応関係
テレビの中の主人公は、物語やヒーローにあこがれている。そして、テレビのスーパーヒーローになったつもりで、ヒーローごっこのような戦いをしようとしている。ところが、必殺技ごっこをやっても、実際には何も出ない。
ここまでは、テレビの外の世界にいる視聴者とほとんど同じだ。図を見ると、必殺技に成功する前までの状況は、テレビの中も外もほぼ同じになっている。
従って、視聴者は主人公を、テレビの中にいるもう一人の視聴者のような、自らと同類の存在として認識する。テレビの中の世界を、外の世界と同じだと錯覚するのだ。
錯覚が起きる原因は、次のようにも理解できる。以下の図を見て考えよう。
図:あこがれの二重構造
テレビの中にいる主人公は、「テレビのスーパーヒーロー」にあこがれを持っている。
テレビを見ている視聴者も、「テレビのスーパーヒーロー」にあこがれを持っている。
ここで「テレビのスーパーヒーロー」は、主人公と視聴者で、違うものを指している。
主人公があこがれているのは、テレビの世界にあるテレビのスーパーヒーローだ。つまり、図ではテレビの中に描かれたテレビに映っている「ヒーロー」だ。
一方で、視聴者があこがれているのは、主人公そのものだ。図では、外側のテレビに描かれている「主人公」だ。
しかし、視聴者には、その違いは分かりにくい。主人公も、視聴者も、自らの世界にあるテレビのヒーローにあこがれているという点では同じなので、テレビの外にいる視聴者も、テレビの中にいる主人公も、同じようなものだと、むしろ錯覚してしまう。
以上が、錯覚が起きるメカニズムだと思うが、いかがだろうか。
さて、番組の後半では、変身した主人公が思い切り気合いを入れると、ついに必殺技が炸裂して、敵に勝利する。一方で、その代償としてどっと疲れる。
この部分は、明らかにファンタジーとしての描写だ。嘘の世界である。
しかし、いったん錯覚を始めてしまうと、人の心はそう簡単には元に戻らないので、明らかに嘘の世界を描いた必殺技成功の描写さえも、自分自身で実感したかのように思ってしまう。実に、面白い錯覚だと思う。
おとなの視聴者は、変身して戦う苦労と勝利の喜びを、本気では実感できないかもしれないが、主人公が見せた姿勢くらいは、自分自身に照らし合わせて実感できるのではなかろうか。
将来を悲観して努力をあきらめるよりも、幸せを求めてやりたいことを自分で決め、やりとげるように努力したほうが、きっとよい、というメッセージは、私の心にストレートに突き刺さった。
すごい番組だ。感動した。
「スマイルプリキュア!」が感じさせてくれるリアリティーは、シナリオだけでなく、背景の描き方にもあるように思う。
「スマイルプリキュア!」の背景画は、実際にありそうな街並みをリアルに描いている。建物は不動産屋だったり書店だったりで、近所を歩けば見当たりそうだ。上を見れば電線が電柱を伝わり、建物の脇にはエアコンの室外機が見える。
どこにでもありそうな街並みの中で、ヒーローごっこをしている主人公を見ていると、作品の世界が、視聴者に近い存在として見えてくる。
だからこそ、劇中劇を自覚しながら戦うような、一見おかしな行動をとる主人公を、まるで私の分身であるかのように錯覚して楽しめたのだと思う。
絵本が大好きな主人公が、おとぎばなしの悪役と戦う、という本作の企画を知ったときは、リアリティなどなさそうだと思っていたのだが、番組を見て、認識が180度変わった。
劇中劇じみた世界で、ドタバタ内輪だけで盛り上がる、というような、深夜アニメに見られがちな作品ではなく、視聴者がヒーローに対して感じる気持ちを、劇中の登場人物がストレートに演じることで、むしろリアリティーを極限にまで高めていたのだ。
一方で、テレビの影響力の強さにも、あらためて驚かされた。作品に込められたメッセージは、視聴者の心に大きく影響する。小さな子どもならなおさらだろう。はっきり言って、怖い。
テレビのまねをして遊ぶ人たちが、日本中にあふれることだろう。海外でも放送したら、世界中にあふれるのかもしれない。
ファンタジーという作り事の世界を描いた作品だが、現実を生きる人間には、ちゃんとメッセージが届いている。ファンタジーには、こんな面白さがあるのか、と認識させられた気がする。
「スマイルプリキュア!」のスポンサーは、主におもちゃ会社だ。
「プリキュア」シリーズは、関連のおもちゃが、毎年100億円以上売れる、ものすごい市場になっている。
多額の制作費がかかるアニメを無料で視聴できるのは、これだけの売り上げがあってのことである。
番組には、番組に関連するおもちゃを売りたいという意図が込められている。
登場人物が関心を示す対象や、目標とすることに、おもちゃが強く関わるように、物語が組み立てられているのだ。
以下の構成要素は、いずれもおもちゃとして発売されている。
変身には、「スマイルパクト」が必要だ。必殺技を出すときも、「スマイルパクト」に気合いを込める必要がある。いわゆる変身アイテムと必殺技アイテムだ。
主人公たちの目的は、「キュアデコル」を集めることで、妖精「キャンディ」の世界を救うことにあるという。
「スマイルパクト」に「キュアデコル」をセットすると、イチゴやバラ、髪飾り、くし等が現れて、遊べるらしい。
妖精「キャンディ」は、主人公と一緒に暮らしている。髪型をアレンジしたりして、おしゃれを楽しんでいるらしい。いわゆる、マスコットキャラクターだ。
物語は、視聴者が主人公になりきった気持ちで番組を見ると、それぞれのおもちゃを自然と欲しくなるように構成されている。
変身ヒーローになりきるには、変身や必殺技の鍵となる道具「スマイルパクト」が、欲しくなりそうだ。
主人公が目標としている行動は、視聴者もまねをしたがるだろうから、視聴者も「キュアデコル」を集めたくなりそうだ。
主人公たちが「スマイルパクト」に「キュアデコル」をセットして、楽しそうに遊んでいる様子を見れば、まねをしてみたくなるだろう。
主人公がマスコットキャラクター「キャンディ」と楽しそうに暮らしているので、視聴者もマスコットキャラクターのぬいぐるみをそばにおいて、似た気持ちを味わいたくなるだろう。
図にかいてまとめると、こんな感じだ。
図:おもちゃに関しての主人公と視聴者の関係
主人公たちの目標、それを果たすための手段、普段の生活の全てにおいて、おもちゃとなっている要素がふんだんに現れている。
おもちゃが、遊ぶ対象としてだけでなく、集める対象としても示されているところが、コレクション欲をうまくくすぐっている。
まさに、商売上手としか言いようがない。
やばい。自分もほしくなってきたぞ・・・。
ちなみに、子ども向けのおもちゃには、アニメやマンガなどの特定の作品に関係するものと、そうでないものがある。
作品に関係するおもちゃは、作品の世界を想像して楽しむ遊び方をする。
「プリキュア」「アンパンマン」「ポケモン」などで、ぬいぐるみを買ったら、たいていは、劇中の世界を思い浮かべることだろう。
言い換えれば、作品をなぞって遊ぶ、という世界だ。
特定の作品に関係しないおもちゃは、自分で好きなように想像して遊ぶ。
「トミカ」「プラレール」「シルバニアファミリー」「ぽぽちゃん人形」などは、対応するマンガやアニメがあるわけではない。
遊ぶ側は、最初から最後まで、自分で想像して遊ぶことになる。
どちらのおもちゃがよいとか悪いとかいうことではないけれども、私が子どもの頃は、特定の作品に関係しないおもちゃのほうが好きだった。とくに「プラレール」で街を作った気になるのが好き。
分かったことをまとめてみた。
人は、自分と似た価値観で行動するキャラクターに親近感を持つ。
人は、作品や劇中のキャラクターに親近感を感じると、作品内でのできごとを、実感するかのように錯覚して楽しめることがある。
テレビは、人の心に強い影響を与える。架空の世界を描くファンタジーでも、リアリティーにあふれるメッセージを発信できる。それが、少し怖い。
アニメ番組には、関連するおもちゃを売る意図が込められていることがある。主人公が関心を示す多くの対象がおもちゃとして発売されているので、主人公になりきって番組を見ていると、自然と欲しくなるように工夫されている。
いろいろ書いていたら、リアルにおもちゃが欲しくなってきた。どうしよう・・・。
ちなみに、このような手法で作られている番組は、他にもある。教科書通りの内容では、視聴者に飽きられてしまう可能性もある。
楽しい作品であり続けられるかは、結局は作品性にかかっている。ベタなテーマでも、物語を丁寧に作り込むことで、単なる商品でなく作品といえるものになってしまうところが、「プリキュア」シリーズの面白さ、なのかもしれない。
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製作・著作:杉原 俊雄(すぎはら としお)
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